また備忘録。ツイートには到底収まらないので、こちらに残しておこう。


過去に撮った写真を見て下手だなぁと思ってしまう瞬間は実に虚しい。
「一期一会」という言葉を、くはね氏がよく用いていたと記憶している。まさしくその通りである。それを逸してしまった事を、後から振り返って思い知らされるのは、それは厳しい苦行である。
(無論写真が全てな訳ではない。全くもってそうではない。空気感とかそこに自分の身が不思議に置かれている感覚とか、そういう物は無論2次元の記録には残らないし、一連の記憶が断片化したとしても鮮明に要素として残るだろう。)

もともと、写真に「着飾らせる」事はしないのが信条である。それは写真芸術というか何というか、全く別なものである。絵を描く感覚で写真を撮る人とは、はなから思想が違うし、目的も全く異なる。私にとっては、どちらかと言えば「記憶装置」であるのだろうか?確かに写真は常に過去を映しており、「追憶の手掛かり」となるものである。だから(という安直な順接で結べる訳ではないのだが)、なるべく見たままに、鮮明に明瞭に、そして美しく撮るように心掛けている。いや、心掛けるまでもなく、そのように撮っている。
(多少露出アンダーにして撮るようなケースもあるが、これはそこに漂う空気感の露出がアンダーであるとも言えようか。人間の目で見ているというより、脳で捉えた一連の景色を、写真に落とし込んでいるような感覚。いずれにせよ上の文に漏れる事無く収まる。)
ただ、もし追憶の手掛かりとしてのみの存在ならば、音声まで入るビデオを回していればいいじゃないか。では何故写真に惹かれ、そこに拘るのか。やはりそこに絵画としての要素が存在しているからだろうか?
やはり正直に胸に手を当てて考えれば、記憶装置なんて後付けの目的に過ぎないかもしれない。音楽を演ることが好き、野球が好き、ファッションも面白い。それと同等の次元の欲求が、写真撮影という行動で満たされているのだ。

もちろん絵画として、バランスの良い写真を撮る事ももちろん快感であるが、しかしそれだけでは心は満たされていない筈だ。では何故こうも惹かれているのか。「絵になっている」物の奥には何があるのかを考えると、そこにもう数歩深い意味合いが見えてくる。そこには、その瞬間に自身が直面したその空間・空気の中にある何かである。それは対象次第で如何様にも変わるが、一番しっくり来る単語は「文脈」「コンテクスト」であろうか。それを静止画の中に、操作することなく美しく収める事、これはおそらく自分に限りない「快感」をもたらすだろう。きっとここまで含んでいるから写真が趣味となっている。ちょうど上手い比喩を見つけた時の快感と似ているかもしれない。
「何を撮るか」という部分にはここまで含まれてきて、そこに嗜好・思考、大きく言えば自分自身までが繋がっているから、一種の自己表現として成立する。表面的には美的要素のみでありながらもそこにこの一連の「繋がり」が存在する、これこそが私を虜にする主因だろうか。

ところで、何事においてもそうなのだが、自分は「拘りのスイッチ」がオンになるのが若干遅い。(そもそも世間からすれば「そんなスイッチねぇよ」なのだろうが。)ある程度経ってから本当に面白くなってきて、とことんやらないと気が済まなくなっていく、そんな性格である。写真趣味もそのご多分に漏れず、スイッチが入ったのは遅かった。まぁ、そんなスイッチは無理やり押せる物でもないので仕方ないといえば仕方ないのだが。幸い今はそこに存在する殆どのファクターを認識しているつもりであり、それでもいろいろな思考を巡らせて毎回悪戦苦闘している。
「当たり前のように絵になってしまう物」を撮っていても、きっと写真というのは上手くならないし、そもそも浅いし、真の面白みに触れる事が出来ない。初めのうちはこれに気付けなかったのだろう。撮ることが面白くなってきた頃に「絵にならないものを撮る」こと・それを吟味すること・そこでとにかく何かを模索すること。これらがとにかく必要だったのだろう(またそのうち必要な時が来るだろう)。

今でもそうだが、絵にならない物を撮るのは難しい。絵になっている物を撮るのでも、コンテクストが無いままに撮っていては全く虚しい(その場ではいい絵に見えているかもしれないが帰宅してみると惨憺たるものである)。それでも足掻いてみる事で、何かを見出すことができて、次にヒット量産、なんてこともある。
数やれば上手くなる、というのは暴論であり全く思想に合わないが、アウトローからインハイまで直球変化球とも撃てるようにしておけば、甘く入った球は逃さなくなる、まずはただそれだけのことなのかもしれない。
(今となっては、アウトローのカーブが得意、みたいなのが出てきた訳だ。鉄道写真で例えれば、中長編成のアウトカーブ構図が得意、望遠の正面打ちが好み、とかかw しかし井の頭の18.5m×5両はいい練習だった。)

さて、プロ野球選手も素振りをするように、今の時点でも日常的に怠ってはいけない事が他にある。少し技術的な側面を含んできてしまうのだが、当たり前すぎるが「そういう目で世界を見ること」と「妄想すること」だろうか。


真っ向から向き合ってみたが、まだまだ浅はかだ。

ただ、何故こうも惹かれる・満たされるのか、といった部分は、時に頭でっかちになって見失うこともあり、そしてしっかり見詰めるべき部分でもある。
決めに行く写真と、気軽な写真。前者は技術がついてくれば大体において上手くいくが、後者はボーっとしていたらどうしようもない物しか生まれない。コンテクストに目を向け耳を傾け、楽しみながら妄想する事、これが間違いなくプラスに働くだろう。深みとか個性とかセンスとかその頃の生活で考えていた事とか、結局は後者に出て来ているのかもしれない。


本当は2:3に拘る理由とか、もっといろいろな事を考えるべきなのだろう。とりあえずこのへんで、続編があるかも分からないが第一回は終わる。

コメント

くはね
2013年8月25日0:31

旅行記も拝見しました!暑い熱い夏だったようで、乙でした! ◎ε◎/
いやー、文脈、コンテクスト、自己表現とか、色々共感する部分が大きいです。
絵になる/ならないはあるにしても、やはり「見えてない」ものは撮れないと思うね(網膜に結像していても視覚野でまともに処理されていないものは撮れない、みたいなw)。
しかし「なぜ写真を撮るか」は難しい問いだ・・・絵画としての要素を考えたこともあったけど、またちょっと違うのかとも思ったり。

Nosuri
2013年8月25日1:10

どもども!ほぼ雲(◎かw)の無い撮影行でしたが、国鉄色も拝めてよかった◎ε◎
なるほど確かに、“「見えてない」ものは~”はその通りだな。偏る事なく「見える」状態に至るには、常にとにかく沢山の物に触れて「見る」ことが肝要なのかな。
「なぜ」は最も根本的で難しい問いかもね。絵画的要素だけでは決して充分な答えにならないように思う。また今度このトピックも話題にしませうかw

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