「写真」を考える(2)
2013年10月20日 日常 コメント (2)写真の色の問題は難しい。
自分が毎日見ている液晶が絶対であるように自ずと思っている気はして、それでも世の中には多種の液晶があり、紙焼きするにしても会社毎に違うし、確証を持って「ゴール」を定めるのが難しい。
ゴールそれはすなわち信条であり、それに背けば僕の場合「写真」が「真」でない状態になる。
おそらく今使っているPCのスクリーンは、比較的地味な色合いで、コントラストも淡め。色調の偏りはほぼ無いだろう。
対照的とも言えるのはアップル系の液晶画面、えげつないほどにvividでコントラストも強く、常に紙焼きしているような色彩で表現してくる。
(恐らく世のスマートフォンという奴らはこういう液晶なのだろうか。スマホを通してみれば、僕の写真も嘘吐きに見えているのかもしれない。)
写真において何を「真」と設定するか、これも人其々であるのもまた確か。
(そもそも写真は世界を「切り取る」ことで成り立っている。被写体深度次第では、有り得ない絵が出来上がったりもする。その時点である種の補正が掛っている、これもまた確かである。しかしこれは穿った見方だろう、そもそも切り取る行為は写真の醍醐味でもあり、撮影行為そのものにも通ずる部分である。こんなことをもし否定などしたら、今後一切望遠写真が撮れなくなってしまうw)
やはり、「景色を見た瞬間に脳内に描かれたイメージ」が写真を撮るモチベーションというか、これが写真をどう撮るか決めている訳だ。このイメージ自体に嘘は存在しない(嘘になるも何も、常に眼前に存在しているので、どんなに嘘をつこうとしても常時真実に塗り替えられている)。
このイメージに対して嘘を付かないように撮るのが信条。これに今更変わりはない。
(そのうえで勿論、コンセプト、コンテクストが見えるような「芯」は保ちたい。これはどちらかというと構図が担う部分だが。)
実物より褪せた色に写して魅力を失わせるのは折角の美的被写体が台無しになるので、可能な限り避けたい。これはこれで「残念な嘘」だと思っている。
オールオートで勝手にカメラに撮らせると、色んな嘘をついている(それでも正直で居られるのは最上位機種くらいだろう)。WBを適当に変えればあっという間に嘘が出来上がる。真実を狙ったとしても、イジリすぎては訳の分からない(くはね氏の言う「塗り絵」か)が出来上がる。
先ずは己が今現時点で信じている「ゴール」の正しさを確かめて、
そこからは確実に狙いを定め、一貫性を持って精度高く撮影する、これに尽きるだろうか。
眠くなったので打ち切り。
自分が毎日見ている液晶が絶対であるように自ずと思っている気はして、それでも世の中には多種の液晶があり、紙焼きするにしても会社毎に違うし、確証を持って「ゴール」を定めるのが難しい。
ゴールそれはすなわち信条であり、それに背けば僕の場合「写真」が「真」でない状態になる。
おそらく今使っているPCのスクリーンは、比較的地味な色合いで、コントラストも淡め。色調の偏りはほぼ無いだろう。
対照的とも言えるのはアップル系の液晶画面、えげつないほどにvividでコントラストも強く、常に紙焼きしているような色彩で表現してくる。
(恐らく世のスマートフォンという奴らはこういう液晶なのだろうか。スマホを通してみれば、僕の写真も嘘吐きに見えているのかもしれない。)
写真において何を「真」と設定するか、これも人其々であるのもまた確か。
(そもそも写真は世界を「切り取る」ことで成り立っている。被写体深度次第では、有り得ない絵が出来上がったりもする。その時点である種の補正が掛っている、これもまた確かである。しかしこれは穿った見方だろう、そもそも切り取る行為は写真の醍醐味でもあり、撮影行為そのものにも通ずる部分である。こんなことをもし否定などしたら、今後一切望遠写真が撮れなくなってしまうw)
やはり、「景色を見た瞬間に脳内に描かれたイメージ」が写真を撮るモチベーションというか、これが写真をどう撮るか決めている訳だ。このイメージ自体に嘘は存在しない(嘘になるも何も、常に眼前に存在しているので、どんなに嘘をつこうとしても常時真実に塗り替えられている)。
このイメージに対して嘘を付かないように撮るのが信条。これに今更変わりはない。
(そのうえで勿論、コンセプト、コンテクストが見えるような「芯」は保ちたい。これはどちらかというと構図が担う部分だが。)
実物より褪せた色に写して魅力を失わせるのは折角の美的被写体が台無しになるので、可能な限り避けたい。これはこれで「残念な嘘」だと思っている。
オールオートで勝手にカメラに撮らせると、色んな嘘をついている(それでも正直で居られるのは最上位機種くらいだろう)。WBを適当に変えればあっという間に嘘が出来上がる。真実を狙ったとしても、イジリすぎては訳の分からない(くはね氏の言う「塗り絵」か)が出来上がる。
先ずは己が今現時点で信じている「ゴール」の正しさを確かめて、
そこからは確実に狙いを定め、一貫性を持って精度高く撮影する、これに尽きるだろうか。
眠くなったので打ち切り。
コメント
いやしかし、「被写界深度次第では、有り得ない絵が出来上がったりもする」というのは本当にその通りだと思う。超望遠や超広角、絞り開放とかを使って「有り得ない絵」を作ることと、見えていない色を「塗り絵」のように作ることとは、何が違うのかという問いも浮かんでくる。結局どっちも「作りもの」なんじゃないか、という疑問だな。
レンズは純粋に光線を屈折させるのみで、ヒトでは水晶体だけがこの働きをするのだけれども、色を描く撮像素子とデジタル処理機構はヒトではどうなっているかというと、10層構造の網膜に埋もれた錐体細胞から発射される電気生理的な信号が、シナプスを乗り継いで視覚野へと複雑に投射され、そこの大脳皮質で認識されるわけです。まあこのいかにもクリティカルな部分を機械側でいじることをどう考えるか、という問題で、ヒトの水晶体だけでは実現し得ない能力を色々なレンズで単に代償している、というのとはちょっと次元が違うような気もしているw
長文失礼しました◎ε◎;
「~何が違うのかという問い」はまさしく考えるべき疑問だね。
裏を返せば「なぜ作り物ではいけないのか」という問いがそこにはあって、これも案外一般解を答えるのは難しいと思う。我々の目指す写真が「写“真”だから」というのは特殊解の一つだと思うが。
さらに、被写体深度の問題が「ではその「真」とは何か」という問いを投げかけて来る。恐ろしく厄介な事になってくるな…。
おぉ、なるほどなるほど。流石の観点から来ましたなw
例えばジオラマの中に秀逸な模型を置いてその近くから模型を見れば、背景は丁度写真と同じようにボケて見える。ただ実際その部分を「ボケた状態でピントを合わせて見る」事が出来ない。これは水晶体ではなく大脳皮質側、「認識する側」の問題なんだろうね。
とすると、(通常とかいう言葉を安易に使いたくはないけれど)被写界深度が適切に効いた写真っていうのは、「通常では認識出来ていないが見えているもの」を見て認識出来るようにする、というような格好に近いのかもしれない。勿論程度の差があるし、「本当にありえない絵」を弁護する事は塗り絵と同様、今の信条を持ち続ける限りは出来ないだろうね。
いやー面白いっすな。考える事は芋蔓式に出て来るw