目標だとか抱負だとか、こういった類の物のうち近接未来における物は、自分の実行可能な領域の外縁かつ近傍に設定するのが殆どである。しかしこの歳にもなってくると(というには未だ早いのかもしれないが)、現在の自分の実現可能な領域の形状というのが、自分の持ち合わせる性質そのものを表すようになっているのではないか。そうすると、自分の行動の型にフィットしないような物を誤って据えてしまうと、大きな自己矛盾を抱える事になる。惨憺たる結末へ至るのは不可避である。
そもそも、漠然とした理想像というのが己の中にあって、これとの不一致がこうした物の設定の大きな根拠・動機になるのは間違いない。その理想というのが果たして自分の中のどういった価値観により形成されているのか。何しろ価値観などという代物は一人の人間の中に幾つでも存在出来る。何かに感化されたことに因る物すら恰も自分の物であったかのように錯覚することも可能である。これを否定するつもりはない(否定すれば自分の進化の道を自分で閉ざすに等しい)が、「オリジナリティの比率」が至要たるパラメータである事は忘れてはならないだろう。純度高く自分に根付いた価値観(この「価値観」というふわっとした単語は元来好きではない。コミュニケーションに於いて相応しいとは到底思えぬ言葉の一つである)に逆らえば、ただ自縄自縛に陥るのみである。
自身の中で、大別して2つ、理性と感性は常日頃から強く併存している。どちらも引く事を知らず、非日常に於いてそれらを同時に満たす事は可能であるが、日常に於いては対立構造から脱する事が出来ない。恐らくこの構造こそが己の人生という逍遥を鬱然たるものに変容させてしまっている。こればっかりは仕方がない。こんな事を公然と言っても誤解を生むのみで何の生産性も無いどころか誰も幸せにならないから発するのは初めてかもしれないが、「皿に対して料理が過密」とでも言おうか、己を俯瞰してみるとそんな様相である。
(荷が重いという表現はよく用いられるが、これは敢えて用いる気が起きない。「悲劇のヒーロー」と思われるのが全くもって納得が行かないしそんなつもりも毛頭ない、そして私は自身の重さに耐えられないと思った事は一度も無いからである。なお、その強度・靭性を恨んだことは数知れない。)
大別せずともこの過密な状況を表現するのは簡単で、単に品数が多いという事である。当然ながらその全ては現時点で未熟な仕上がりであるが、幸か不幸かその全ての進むべき道を私は悟っているように思う。その羅針盤が例の「価値観」である。悪い癖で文章がつい回り道をしてしまったが、つまるところ価値観も過密なのだ。その何れを「主題」とするか。
大要のみ触れるとするなら、学問の分野における指標を人生に提示する事は「怠惰」という人間のある種の本質を根本から否定する事に他ならないということ、そして感性を隅に追い遣る事は自身の料理の半分を未完のまま皿に載せ続けることに等しいということか。つい日常は学問(すなわち究極の「理性」的な分野である)により構成されるため、この部分の価値観に沿った指標を設定をしてしまうが、これで本当に良いのか。かといって感性方向に設定したところで日常は何処へ向かうのか。
まず第一に、何処に向かいたいのか。もしこの前提が覆れば、その上に乗る全ての物を(少なくともその配置や比重は)変えねばならない。
そんな事を考えず近視的に生きるのも決して面白くなくはないだろうが、下調べの資料や時刻表を片手に車窓を眺めるほうがやはり面白い。近視的に生きては、恐らく歪んだ線路の上を進む、或いは環状線の上をぐるぐる廻り、そのうちに命が潰えてしまうかもしれない。まどろっこしい比喩を捨てて言うなれば、音楽、美術、その他感性の掌る部分をもっと人生と関連付けていかねば、私は私として生きられないまま一生を終える事になりかねないと思うのだ。
…高慢と思われても仕方がない段落であった。贅沢な悩みをひけらかしていると、後ろ指を指されても仕方がないかもしれない。そっくりそのまま秘密日記に持っていってもいい程だが、敢えて残そう。基本的に「皿の上の料理」は金や道具と同じで、持ってるだけでは満たされず、使って初めて意味が出る。ただし、人生の時間や機会は限られている。これでもう、説明は良いだろう。
結局、年始に据えた「フットワーク」は、その理想像としての完璧さゆえに自身に縄を括りつける結果となったようだ。この根源となった主因も、ある程度「一過性」を持ち合わせた、オリジナリティの比率の低い価値観であったようにも思う。そして捉えようによっては人間の根本原理に刃向かう要素を含んでいた事、また己のオリジナルの価値観に背反する事に、3週間で気付くに至った。
さて、年始にも思った事であるが、この言葉は実に軽便である。捉えようを変えてしまえば全く異なった指向性を示すのだ。そんなものを据えた事に己の軽薄さが垣間見えるのはさておき、残る49週へ向けて微修正を加えるとするならば、ある種1回微分してやって、
「日常を変化させるフットワークを軽くする」、
「3者(ここで詳細は割愛)の価値観のバランスを保ち、日常の質を向上する」
とでもしてやればよいだろう。ともすれば90度ほど設定を変えた事にもなるかもしれないが、これで歪みは無くなったであろう。
蛇足。幸せなんてものは恐らく無い。ある種の欲求が満たされたときにそれを幸福と錯覚するのみである。だから、己を満足させればそれでよいのだ。無論、これは自身の倫理観などを全て信用した上での極論である。
蛇足その2。僕は表現者でありたい。なお、承認欲求が自身の満足の構成要素の一つである事を認めない程、高貴さにしがみ付こうとは思わない。
そもそも、漠然とした理想像というのが己の中にあって、これとの不一致がこうした物の設定の大きな根拠・動機になるのは間違いない。その理想というのが果たして自分の中のどういった価値観により形成されているのか。何しろ価値観などという代物は一人の人間の中に幾つでも存在出来る。何かに感化されたことに因る物すら恰も自分の物であったかのように錯覚することも可能である。これを否定するつもりはない(否定すれば自分の進化の道を自分で閉ざすに等しい)が、「オリジナリティの比率」が至要たるパラメータである事は忘れてはならないだろう。純度高く自分に根付いた価値観(この「価値観」というふわっとした単語は元来好きではない。コミュニケーションに於いて相応しいとは到底思えぬ言葉の一つである)に逆らえば、ただ自縄自縛に陥るのみである。
自身の中で、大別して2つ、理性と感性は常日頃から強く併存している。どちらも引く事を知らず、非日常に於いてそれらを同時に満たす事は可能であるが、日常に於いては対立構造から脱する事が出来ない。恐らくこの構造こそが己の人生という逍遥を鬱然たるものに変容させてしまっている。こればっかりは仕方がない。こんな事を公然と言っても誤解を生むのみで何の生産性も無いどころか誰も幸せにならないから発するのは初めてかもしれないが、「皿に対して料理が過密」とでも言おうか、己を俯瞰してみるとそんな様相である。
(荷が重いという表現はよく用いられるが、これは敢えて用いる気が起きない。「悲劇のヒーロー」と思われるのが全くもって納得が行かないしそんなつもりも毛頭ない、そして私は自身の重さに耐えられないと思った事は一度も無いからである。なお、その強度・靭性を恨んだことは数知れない。)
大別せずともこの過密な状況を表現するのは簡単で、単に品数が多いという事である。当然ながらその全ては現時点で未熟な仕上がりであるが、幸か不幸かその全ての進むべき道を私は悟っているように思う。その羅針盤が例の「価値観」である。悪い癖で文章がつい回り道をしてしまったが、つまるところ価値観も過密なのだ。その何れを「主題」とするか。
大要のみ触れるとするなら、学問の分野における指標を人生に提示する事は「怠惰」という人間のある種の本質を根本から否定する事に他ならないということ、そして感性を隅に追い遣る事は自身の料理の半分を未完のまま皿に載せ続けることに等しいということか。つい日常は学問(すなわち究極の「理性」的な分野である)により構成されるため、この部分の価値観に沿った指標を設定をしてしまうが、これで本当に良いのか。かといって感性方向に設定したところで日常は何処へ向かうのか。
まず第一に、何処に向かいたいのか。もしこの前提が覆れば、その上に乗る全ての物を(少なくともその配置や比重は)変えねばならない。
そんな事を考えず近視的に生きるのも決して面白くなくはないだろうが、下調べの資料や時刻表を片手に車窓を眺めるほうがやはり面白い。近視的に生きては、恐らく歪んだ線路の上を進む、或いは環状線の上をぐるぐる廻り、そのうちに命が潰えてしまうかもしれない。まどろっこしい比喩を捨てて言うなれば、音楽、美術、その他感性の掌る部分をもっと人生と関連付けていかねば、私は私として生きられないまま一生を終える事になりかねないと思うのだ。
…高慢と思われても仕方がない段落であった。贅沢な悩みをひけらかしていると、後ろ指を指されても仕方がないかもしれない。そっくりそのまま秘密日記に持っていってもいい程だが、敢えて残そう。基本的に「皿の上の料理」は金や道具と同じで、持ってるだけでは満たされず、使って初めて意味が出る。ただし、人生の時間や機会は限られている。これでもう、説明は良いだろう。
結局、年始に据えた「フットワーク」は、その理想像としての完璧さゆえに自身に縄を括りつける結果となったようだ。この根源となった主因も、ある程度「一過性」を持ち合わせた、オリジナリティの比率の低い価値観であったようにも思う。そして捉えようによっては人間の根本原理に刃向かう要素を含んでいた事、また己のオリジナルの価値観に背反する事に、3週間で気付くに至った。
さて、年始にも思った事であるが、この言葉は実に軽便である。捉えようを変えてしまえば全く異なった指向性を示すのだ。そんなものを据えた事に己の軽薄さが垣間見えるのはさておき、残る49週へ向けて微修正を加えるとするならば、ある種1回微分してやって、
「日常を変化させるフットワークを軽くする」、
「3者(ここで詳細は割愛)の価値観のバランスを保ち、日常の質を向上する」
とでもしてやればよいだろう。ともすれば90度ほど設定を変えた事にもなるかもしれないが、これで歪みは無くなったであろう。
蛇足。幸せなんてものは恐らく無い。ある種の欲求が満たされたときにそれを幸福と錯覚するのみである。だから、己を満足させればそれでよいのだ。無論、これは自身の倫理観などを全て信用した上での極論である。
蛇足その2。僕は表現者でありたい。なお、承認欲求が自身の満足の構成要素の一つである事を認めない程、高貴さにしがみ付こうとは思わない。
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