文を綴るのは帰京後にすると決め、想起された単語のみを車中でメモしていった。褪色せぬうちに、その一つ一つを「展開」してやらねばならぬ。帰宅から2時間半、その作業に勤しむことを決める。
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青森駅始発のブルートレインは、予定通り18時前頃、3番線に入線してきた。午後から青森市街に舞う吹雪は弱まり、小雪が微風に漂う中、紺碧の空の下を橙の子馬に牽かれ、青の龍がやって来る。向かいの2番ホームから、DE10に牽引され入線する姿を写真に収めた。あけぼの号には幾度もお世話になっているが、青森~大館間の乗車経験は無く、2022レの入線場面に立ち会うのも初めてである。最初で最後となるこの瞬間を冷静に過ごすのは至難であり、車中の為にペットボトルのお茶を1本買うのにも思考が必要なほどだった。
2番ホーム、3番ホームとも大変な賑わいようで、一部には立入禁止のロープまで張られていた。鉄道警備隊も十人程度出動しており、「何かあったら絶対許さない」態勢が出来上がっていた。一部報道も来ていたが、客にはあまり興味がないようである。牽引機はEF81 138号機。どちらかというと、137号機に良くお世話になっている印象があり、少し新鮮に感じる。一通り収めたいアングルを制覇していくと既に出発5分前となっていた。今日の乗車は2号車・B寝台開放、男性客としてEF81に最も近い位置。8号車付近から前方へ戻り、とうとう足を踏み入れる。最後の2022レ、12時間の惜別乗車の始まりである。
列車は唐突に出発した。この編成や運転士から、名残惜しさなどは一切感じられない。ただ決然と、定時を刻むというその使命を、残り4日間全うするのみである。その姿勢に、乗るこちらとしても気が引き締まる思いがする。
新青森を発車し、長い車内放送。今日の乗車は上段であるので、スピーカー近くで録音を兼ねて録画。秋田でアナウンスが交代するのだが、後々思えば秋田以南の放送のほうが声色や口調に味があって良かった。勿論つべこべ言っている場合ではない、この区間最初で最後の乗車である。
通路の席に座り、海側の窓を見れば、ちょうど鶴ヶ坂の駅が後方へ流れてゆく。7時間前まで居た駅である。今日の2021レを無事に撮影ができたことに、本当に感謝しなければならない。そしてこの撮影を共にした地元九州・関西在住の大学生くんは、今日は東能代あたりでこの2022レをバルブ撮影すると言っていたが、その後どう立ち回ったのだろうか。
彼は九州育ちで、小学校の窓からブルートレインが通るさまを毎日見て育ったという。そしてその記憶があるからこうして今ブルートレインを追い掛けている、とのことである。このような幼少期の反復は必ず記憶に刷り込まれてゆくものであり、何時しかそれをもう一度見たいと思うものである。懐旧的精神は人間の性なのだろうか。私も高井戸在住時代、小学校の校庭の向こうを、井の頭線3000系一本帯が行き交う様を毎日見ていたことを思い出す。3000系一本帯は私が中学1年のときに全廃。2本帯は忘れもしない、大学3年の秋に引退した。合唱団の通しリハーサルが午後からあるというのに、ラストラン期間最後のチャンスということで午前中に自転車を飛ばし、勝手知ったる踏切を自在に巡り惜別の撮影をしたのだった。
そしてさらに遡ってみれば、私に刷り込まれているのは、中央線・総武線、東西線、京浜東北線を行き交う、103系の記憶であり、幼少期に「あずさ」「かいじ」「あさま」として走っていた、183系の記憶である。物心ならぬテツ心が付いた頃には既に彼らの姿は無く、103系は鶴見線、南武線、八高線、常磐線、武蔵野線、京葉線に残るのみとなっていた。それでも今思えば、十分に未練を晴らすチャンスがあったということである。中学入学後コンデジを使ってこれらを追い回したのは、元はと言えばこの「刷り込み」があったのだろうと思う。
浪岡駅を通過。昨日の2022レを見送った場所である。昨日は中線に貨物列車が止まっていて、やむを得ずアウトカーブ、通過側のホームから動画撮影する予想外の展開であったが、今日は貨物がいないではないか!もっとも通過側のホームにいたからこそ2022レの蹴り上げる粉雪を全身そしてカメラのレンズにまで浴びまくるという体験を出来た訳で、それはそれで貴重なものとなったのだが。
「いつしか、青森から上野、全ての駅を言えるようになっていた。それにまつわるすべての体験を反芻する。旅とともに、日本海側の経験とともに、大人になったと言える我が人生、今日に至るまでの総括とも言える12時間。浪岡を通過し、青の龍は闇夜を翔ける。」
これはちょうど川部駅を通過したあたりで書いたツイートである。幾つかの難所は意図的に記憶したが、あけぼのが通る駅はほぼすんなり覚え、記憶に綺麗に入っている。思えば日本海側を全く通らない旅行というのは数えるほどしかしていない(201209関西行、201302京都、201309九州)。旅行を餌に奮い立たせて生きた時間、旅行に育ててもらった心情、旅行とともに引き出されてくるその時期の日常の記憶、感情の記憶。我が人生を語るにあたり、旅の存在を抜きにすることは決してかなわない。そしてその旅を代表する夜行列車が、あけぼのであった。
川部駅を通過。思ったよりも青森からの距離は近い。あけぼのの通過、飛翔するノスリを撮影したのは、2010.8、青森・道南旅行の最中であった。あれももう3年半も前になる。難読駅代表・撫牛子駅を通過し、2022レは弘前に到着。
これも10.8、汗だくになりながらレンタサイクルを返却し、特急かもしかに飛び乗った記憶が鮮明に蘇る。ちょうどあの時駆け下った階段が見える。あのあたりに立って、かもしかの入線を待った。検札が来ず、特急券を買いそびれた。汗が噴き出してきて座席背面にもたれかかると不快感をおぼえたことすら実感を伴って思い出される。今思うとあの夏は、もっとも私に寄り添ってくれた夏だったのかもしれない。
弘前を出た列車は石川を通過して、大鰐温泉へ。このあたりで車内販売が来た。キーホルダーと、あけぼの弁当を購入。駅弁を青森で調達していたのだが、空腹がちょうどピークに達していたこともあり、2つ食べてしまおうかという究極の贅沢に打って出た。徐々に財布が潤ってゆく日々が続いているため、多少の散財を怖がらなくなっているのがまた怖いのだが、まぁ良いじゃないか、ケチケチしていたって何も始まらない。この区間はとりわけ思い入れも無く車窓も単調であるため、ここで早速あけぼの弁当を頂く。中身はやまびこ弁当である。とても美味い。焼鮭と、鮭フレークが印象的。
大鰐温泉といえば、弘南鉄道がラッセルをあけぼの下りとクロスさせるというイベントで話題となった。かねがねこの温泉は一度来てみたいと思っており、何度か旅程への組み込みを図ったことはあるのだが、結局一度も実現していない。あけぼのが臨時化されてしまい、ますますチャンスが無くなっていくばかりである。
長峰を通過し、碇ヶ関。何秒扉開いていたのだろう、停止→ブレーキ緩解→出発の3度の揺れが、どれがどれであるか分からないほど連続していた。碇ヶ関駅について調べてみると2012年度の乗車人員は113人/日と、他の有人駅よりも圧倒的に少ない。鉄道運用上は重要な駅なのだろうが、利用者は居ない。夜行列車ならではの停車駅の一つだろう。
陣馬―白沢は、車窓を見る気も起きなかった。昨日の撮影の悔しさ。無情。嗚呼。
大館は、発車メロディー「ハチ公物語」が有名である。私も大好きな曲の一つである。昨日観光し、昼食もろくに食べられないほどのあまりの寂れように驚き呆れはしたが、この駅はなぜか好きである。到着、停車、発車メロディー、発車の様子を動画に撮る。2022レから聴く最後のハチ公物語に、悲しさを煽られる。
大館を出発し、弁当2つ目を頂く。「むつ湾産帆立釜めし」、開けるとホタテがゴロゴロと入っている。非常に贅沢で、美味。多少過食の感はあったが、美味いから何も苦しくない。つまみのポテチは家に持って帰るとしようか。
前山駅通過。野●●初体験の地であるとかはともかく、この駅にバリ順で駆け込んできたあけぼのを撮影した1年前が懐かしい。続く二ツ井駅では、2013/3、下りを下車した瞬間や跨線橋からの583撮影、81貨物の「見なければよかった」通過などが思い出される。2013/12の下り撮影も記憶に新しい。
東能代駅到着。この駅は五能線の入り口として幾度となくお世話になっている。2013/8の、危うく降り遅れ事件は一生忘れられない。二度寝して見た「ラッパが鳴る夢」で目が覚めると列車は東能代停車中で、慌てて上段から駆け下りて扉に向うも始めは逆方向に進み(カニのドアは開かない)、慌てて戻るも8号車通路端の消火器にリュックの紐が引っ掛かり、靴は脱げたまま、ドタバタと見苦しく悶えながらドアに身を一度挟み、転がるように下車したのであった。
列車は北金岡を通過し、森岳へ。じゅんさいの聖地である。秋田の晩餐で食したじゅんさいのあまりの美味さに驚嘆し、今回の自宅用の土産とした。しかし森岳の撮影地を訪れたことは結局無い。13.2の計画に浮上はしたが、二ツ井富根に置き換えられたのだった。仮に臨時化したあけぼのを撮るとしても、ここは選択しないであろう。恐らく縁が無いのかもしれない。やはり今日乗車している区間、とくに奥羽線内は、今回で本当の別れと思って乗るのが正しいだろう。
あけぼのを中心とした撮影や旅行など、やりたいことは他にも沢山あった。残念だがその全てを制覇することは到底かなわなかった。もっと身軽に立ち回れば良かったという後悔の念と、この程度でちょうど良かったのではないかという思いが、若干後者有利で鬩ぎ合っている。何をどう足掻いても、時は流れてしまった。
記憶の時計を逆回ししていくと、3.11にまず辿り着く。偶然であるが今日は3.11から丸3年、青森アスパムで黙祷を捧げたばかりである。全く直接被災した訳でもない私が言うのは荒唐無稽であるが、私も当時の立場上、3.11に相当苦しめられた。大きく人生を捻じ曲げられたまま、今日に至っていると、口にこそ出せないがそう思う事がある。
再び記憶の時計を逆回ししてゆくと、時間軸の無情さに悲しみが込み上げる。私は何故、古きものに、昭和に、これほど取り憑かれてしまったのだろうか。そしてそれらが失われていくこの時間軸上で、一体この先どこへ向かえばよいのだろうか。ふと思えば話題が、現代が「つながりすぎている」時代であるという事と、どこか繋がってきている気がする。八甲田丸を見ながら、小雪(後々、吹雪となった。相変わらず、雪男っぷりは健在である)の中を流れてくる「津軽海峡冬景色」を聴き、どうしようもなく「ゆかしい」気持ちになり、そこから現代の「つながりすぎている」事へと思考が発展していったのだった。繋がりたくても離れなければならない時代、現代とはまるで対象的な時代を背景とした人間の関係は、私にとってどうしようもない憧憬の対象であるようだ。
育む時間が短くなれば、育まれる想いも少ない。人と人との関係は、つながりすぎることでドライになっている。そんな時代を生きながら私は、心の奥底で有機的な関係、(泥臭いとは言わないが)古臭い関係を求めている事は間違いない。そして、興味関心の向いていく方向だとか、対人関係における姿勢、さらには人生の姿勢だとか、これら全ては同じ根を持つ物であるように思う。これを「生まれた瞬間に地に突き刺された角度」と何時からか表現するようになった。時代に逆行する向きで地に植え付けられた私は、根本的な逆流に抗いながら、この先も生きていくのだろう。届かぬものを追い掛けて、結局気付いてみれば自分も時間軸上を正方向に移動している、そんな事になるのだろうか。
それにしても「津軽海峡冬景色」、どうしようもなくプラトニックなエロを感じる(声は勿論)。自分の中にある悲恋への憧れは一体何なのだろうか、とふと思う。皆持つものなのだろうか。私も手の届かぬあの人を一生愛することになってしまった訳だが、果たして私の事象のうちどちらがニワトリでどちらがタマゴなのか。
思うに昭和文化は、日本人の気質・気性をとてもよく体現しているのではないだろうか。精神構造的に、昭和文化にピッタリ合うのが日本人なのではないか。現代の世代はバイアスがかってそれらを無意識に排除し、平成文化が自分たちに合っているものであると錯覚し、何の自覚も持たずに無感動に無感情に生きているのではないかと思う訳だ。
さて、だいぶあけぼのから話が逸れていってしまった。今まで、7-下に優しそうな中高年男性が居て、8-上に私、残る2席は空席のままであったが、東能代で7-上にやたら野性的な風貌の老紳士が乗ってきた。東能代が地元で、あけぼのには「いい思い出はあまりないが、無くなってしまうのはやっぱり寂しい」ので、仕事を休んで乗車を決めたという。記念に写真を撮って差し上げた。ちらっと見てみると、ルイヴィトンのバッグを持っている。まさかそっち系じゃないだろうかと疑いもしたが、秋田を過ぎるとカーテンを引き眠りに就いた。
ところで9-下と10-下が、青森を出た直後から酒談議で盛り上がっていて、少々煩い。どうせ酒を語るなら、君らの年ならもう少し幅広く深く、聞くこちらが面白いと思うようなレベルのことを話したまえ。マッカランやグレンフェディックなど話題にするまでもないだろう、などと若干軽蔑しながら聞いていたが、どうしてこうまで気に障るのかと思ったら、語りたがりの男性特有の抑揚によるものだと途中で気付いた。女に好かれないだろうな。俺は女にも物を語ることは少なからずあるが、ああいう喋り方は恐らくしていないだろう。いやしかし自分の喋りというのは案外分かっていないもので、もし何かサシ飲みの際の会話を録音して自宅に戻って再生してみたら果たしてどれほど恥ずかしいものだろうかと思う。
夜行列車とはそういう会話を生む場でもあり、そんなものを否定するつもりは毛頭ない。ただ私は2022レの日常が味わえればそれで良い。そういう観点からすると、今日の車内は浮足立った印象もなく、比較的落ち着いている。いい意味でこれは日常的な光景である。時折この列車の価値など分かりもしないであろう厨房がうろうろしていたりはするが、これもまあこれで日常。いい日に良い車両に乗車出来たことを、大変幸せに思う。
八郎潟を出発すると、雨が鋼板を鳴らす。12.9の小田原駅や、13.8の下りあけぼの車内を彷彿とさせる。追分では男鹿線撮影行を思い出す。あの人が、あの写真にイイネをくれたっけ。やはり僕は、愚かにも彼女を愛し続けてしまう。
ふと気付けば枠よりマットが5cmほど小さいことに気づく。縮んだのだろうか?列車が南下するにつれて車窓から雪は減ってゆく。この旅の高速逆戻しである。人生の総集編が如く、いろいろな記憶の断片が脳内をあちこち飛び回って行き、その全てを文にするのは勿論、メモを取るのすら困難であるが、2014・冬は、人生第2楽章のCodaなのかもしれない。
ところで、私と一般の鉄ヲタとの区別は、どう説明すればよいのだろう。ただの鉄ヲタではないことを端的に説明するにはどうすればいいのだろう。「思想」と「感性」?さらには、コンテクストの概念?どう動いてどう撮るかという表面的な問題はさておき、「何を撮るのか」という思想の部分に関して、正確な表現ができるようにしておきたいものである。
思索するうちに列車は土崎を過ぎ、秋田駅に到着。さらば、奥羽本線。数分の停車の後、EF81の悲哀に満ちた鳴き声が構内に響き渡る。EF64もEF81も、とても愛らしく、とても悲しい声をしている。
秋田駅を出ると、再び雨が降ってきた。車掌は秋田車掌区のオオハラ氏とサダ氏に交代。声の雰囲気がとても良い。客車内蔵のマイクで程よく割れて、時代を感じられる声である。
程無くして、新屋駅を通過。一昨日のタクシーの車中の会話を思い出す。かつてのあけぼのはこの区間は通っていなかった。羽越線経由になってから20年近くが経ち、日本海が廃止されて羽越線唯一の夜行列車となった、寝台特急あけぼの号。定期列車として残り4往復である。一駅一駅、実感が強まっていくばかりである。
桂根駅との駅間、撮影地である陸橋を後方に見送り、トンネル出の直後の俯瞰場所を心の目で見る。もう本当に二度とやって来ない場所であろう。たとえば40年後、丸1年そして200万円ほど掛けて、青森から下関まで裏日本側を歩き通すとか、そんな事をせぬ限りは。しかしそれでは砂の器より過酷である。その頃、羽越本線の鉄路は果たして残っているのか。裏日本側の幾つの集落が限界を超え、幾つの都市が滅びているのだろうか。事ある度にこの事を考えていて、徐々にその将来像が描けつつあるのだが、羽越本線は貨物専用線のような扱いになり、旅客列車は2050年を前に滅ぶのではないだろうかと思う。そして多くの集落はインフラ整備の終了に伴い潰れ、秋田・酒田・鶴岡・村上周辺に小さく残るのみではないだろうか。
車窓を眺めていると、踏切が後方に流れゆくほか、中継信号の音なのだろうか、C♯-G♯の音も共に流れていく。ただの完全5度の筈なのだが、この組み合わせはどうもマイナーコードに聞こえる。D♭-A♭と聴いても良い筈なのだが、これは音色の問題というよりは音の個性なのだろう。
「青龍のガラス爪弾く春の雨」
道川~下浜の駅間は想像より遥かに長い。この区間、美しいストレート構図で下りが撮影出来るのだが、一度も訪れる事はなかった。せめて貨物列車だけでも仕留めておきたかった。81の貨物は3.15改正後、果たしてどうなってしまうのだろうか。秋田まで乗り入れる2091・2093レは、510に置き換えられてしまうのではないだろうか。もう諦めは付いているが、仮に臨時のあけぼのを撮影に来た際に副産物が全く無いというのは、少々苦しいものがある。
羽後亀田。やはりこの駅は砂の器の印象が強い。ドラマ版の撮影は本物の羽後亀田駅を用い、さらにこの周辺でロケも行ったと聞く。思い返せば今春は京丹後を訪問する予定だった。改正が近付くに連れ、あけぼのへの未練が亡霊のように膨らんでゆき、急遽計画を練り東北へ来たのだった。この判断は間違いではなかったどころか、大正解だろう。
亀田手前あたりで海岸線から離れ、集落も離れる。先程までは雨音がしていたが急に静かになり、車窓の街灯を見遣ればナトリウムランプに照らされた橙の粉雪がふわふわと舞っている。よくよく見るとかなり積雪もあるようだ。小砂川からの帰りに通過予定の折渡駅で長停した際、本当に電波の入りが悪かった事を思い出す。同乗していた学生もそのような事を会話に出していたし、先日鶴ヶ坂で長い時間を共にした同業の大学生くんも同じような事を口にしていた。折渡は峠である。岩谷付近の集落があったから、海岸線を離れ峠を越える経路が選択されたのだろう。
羽後岩谷-羽後本荘といえば、羽越本線列車衝突事故が浮かぶ。連査閉塞の穴が指摘された事故であるが、どう考えても人為的ミスなのだった。この区間はこの事故を受けて複線になっている。帰京してから知ったことだが、この事故車(D51ならびにDF50)は両方とも修理を受けて復帰したという。
羽後本荘手前、久しぶりに大きめのマンションが車窓に入って来た。ふと、先月の奈良行の際の、サンライズの車窓で見た藤沢近辺の景色を思い出す。あの出張中は一人の女性の事を考えていたが、藤沢通過時にはこの近辺に住むまた別の女性のことをちらっと頭に浮かべたのだった。
本荘を発車。今日の運転は若干荒めである。雨天がそうさせるのだろうか、発進の際の揺れが非常に大きい。これも機関車牽引の列車ならではの振動であり、今後そう味わうことも出来なくなるものであるから、五感にしかと焼き付けておかねばならない。車内灯が一段階落ちた。
隧道進入や橋梁通過の際、EF81が必ず鳴く。この区間、決然たる加速は今日の乗車で最も強力なものであったが、それと裏腹に鳴き声は一つ一つの景色との惜別の挨拶のように聞こえる。街は変わり、列車も変わりながら今日に至った。互いに持つ記憶を交換し、昔話に花を咲かせているのだろうか。4日後からはこの時間帯にはぽっかりと穴が開く。眠る街を横目に行く旅客列車は、もう消えてしまう。
西目、出戸信号場。再び列車が海岸線に近付く。西目俯瞰は徒歩1時間かかると聞くが、その絶景は特に夏場の午前は素晴らしいものなのだろう。特に6~10両の列車に対してちょうど良い構図なのだろうが、3.15の後ここを通る特急列車は653系である。無念としか言いようがない。
気が付けば雪は消え、降りしきる雨に景色が次第に歪んでゆく。これは雨か、それとも日本海側の全てが流す涙だろうか。
仁賀保に到着し、直ぐに出発。さらに車内灯が落ちる。雨に濡れた24系のガラスに、車窓のナトリウムランプが微かに滲む。早々と寝静まった車内をよくよく見ていると、カーテンの色が奇数番は緑系、偶数番は紫系であることに気付く。今まで見えていなかった事を考えると、まだまだ見えていないものがたくさん、この車中だけでも幾つもあるのだろうと思う。
早いもので、気が付けば象潟に到着。完全に雨降りで車窓は雨に大きく歪み、少し風も強くなってきた。小砂川で嵐に追い付かれたのはもう一昨日のことなのか。もう間もなく当該区間を通ろうとしているが、今日もまた天候が荒れている。
通路で景色を見ているのは2号車では私一人になった。車窓には大型トラックが多く目に付く。北上するものもあれば、南へ並走するものもある。道は線路に近付いては離れてゆく。もしかすると今見ているトラックはさっきと同じ車ではないだろうかなどと思ったりもする。向こうからこちらの存在は見えているのだろうか。同じ夜を行く者同士、何か思い合う事も出来ればと、そんな事を考える。
上浜駅で510牽引貨物が退避していた。小砂川に向かう2022レの車窓に目を凝らし、心の目を見開き、2日前に立って見た景色を描く。海原が手前に広がり、車窓後ろ方向、北の方角であるが、街の灯りが微かに見える。ちょうどこのあたりであろう。漆黒の茫洋を照らす物は無く、水平線は闇に隠れており、ただ車窓の上3分の2は黒の画用紙であるが、こうして心と記憶を伴いながら見る景色というものは格別であり、そこに惜別の念が絡んでくれば更に思いも一入である。間もなく2022レは灯りの一つもない小砂川駅を力強く通過していった。この辺りは住宅も点在している人里のはずなのだが、異様に暗い。眠りが早いのだろうか。
列車は秋田県に別れを告げ、山形に入った。酒田を目指し力走するが、その前に遊佐に到着。僅か8秒程度で扉が閉まったようだ。乗客は2012年で229人/日と以北の駅よりも少ない。しかしあつみ温泉はこの半分程度であるようで、やはりこの一帯の集落は近い将来淘汰される運命にあることが推察出来る。
酒田を過ぎると、不思議なことに再び雪景色が姿を現した。これが庄内と沿岸の差であろう。たしかに3日前、酒田で列車を乗り継いだ際にも、駅構内からして銀世界であった。
余目にも雪は降っていた。余目駅といえば、10.6の夕景は後にも先にも見た事のない、恐ろしい程の濃桃色を呈していた。陸羽東線の小駅に植えられた小さな花々を見て、その愛らしさに涙した南東北旅行。陸羽西線が庄内平野に飛び出すあの瞬間の驚きと、そこに待っていた夕空。一人旅というのは心がニュートラルな状態で時を過ごす事になるからだろうか、入力される情報が感性を通じて克明に記録される。思えばあのあたりから、今の私は始まったような気がする。あの晩は鶴岡の居酒屋で酒を飲み、それから2022レに乗車したのだった。当時まだ、19歳である。
余目から鶴岡の間は単調であり、少しの間眠りに就く。すれ違ったのは幕ノ内信号場だろうか、遅れのいなほはR編成であった。鶴岡駅付近は降雪はあるも積雪はなし。徐々に南下してきた事を実感する。
よくよく感じてみると、81の鳴き声が、通常よりも気持ち長めに聞こえる。SL人吉の白石駅発車の汽笛もそうであったが、最後に少し押し込んでくる感じが胸に強く迫ってくる。電気機関車の息は細く心髄に届くには及ばないが、それでも哀しさを煽るものがある。
羽前水沢付近を快走。三瀬の駅も軽快に通過してゆく。しばらくすると新線のトンネルを抜け、列車は小波渡の駅に飛んで入った。1年前、ここの集落の高台から下り列車と夕陽を見送った。あの穏やかな早春の景色は忘れられない。夜闇の中、下りホームの待合室は電気が灯り薄らと明るかったが、街はもう深い眠りの中。思いを馳せるのも数秒、すぐさま列車は次のトンネルに飛び込んで行った。
五十川駅では保線員がこの夜中に作業中であった。あつみ温泉の手前、海際を走る国道がナトリウムランプにぼんやりと照らされ、粉雪とも霙ともつかぬ雪がその手前をちらちら舞っている。再び81の鳴き声が響く。あと4夜、誰も変える事も止める事も出来ない宿命を、ただ燃やし尽くすしかないのだ。
あつみ温泉の駅は誰も見当たらなかった。列車はすぐに発車し、しばらく行くと大岩川の眠る街を抜ける。俯瞰構図の景色を脳内に浮かべ、今自分がどの辺りを走っているかを照らし合わせる。昨年は雨が降っていた。今日もまた雨濡れの景色。日本海側は景色そして風土に影があり、憂いがある。そこに惹かれるのだろうか。太平洋側では感じられない「裏」日本の美しさは、湿り気と切っても切れぬ物である。
小岩川の駅を通過。こうしてどんどん、別れてゆくのだ。哀しさばかりが増してゆく。この先新たな出会いが、新たに心を委ねられる存在が、私の前に現れるのだろうか(亀井絵里が去って、金澤朋子はその穴を埋めてくれるのだろうか)。時間軸は無情である。鉄路は一本道で引き返す事が許されないという潔さに惹かれている部分があるのかもしれない、とふと思う。
とある女性が1号車へと戻っていった。エメラルドグリーンのタートルネックにジーンズを当てた、ショートカットの女性。とても美しかった。20代前半だろうか。声を掛けて、デッキで話でもすればよかった。どうも自分は勇気が無さすぎる。ちょっとの勇気を挫く程に、その女性は綺麗だったのだが。
さてそんな事を考えるうちに、列車は鼠ヶ関を通過。翌朝の仕事に備えて眠りに就くキハ40の横を、EF81+24系客車が猛進してゆく。この光景も後僅かである。キハ40も、国鉄型の相棒をどんどん失ってゆく。
52・58系列の引退などから、我々の世代はキハ40の雄姿をしっかり目に焼き付けていかなければならないと悟り、今日まで必死にその姿を追い求めてきた。姫新色、東北色、北海道色は未だまともな写真が無いが、その他は殆どしっかり撮ってきたように思う。高山の冬模様を撮りたかったのだが、自然災害の多い地区であるため計画を立てる事すら少々怖いものがある。1月初頭など丁度良いのであろうが、来年は修士論文真っ最中である。2日間くらい強引にこじ開けてみようか。はたまた今回の改正で、どれほど新車に置き換えられてしまうのか、動向が気になるところである。
府屋駅ではラッセル作業中であった。水上の景色が早くも5日前になることに愕然とする。凍え死ぬかと思ったあの夜。両足の感覚を失ったあの瞬間は、本当にやってしまったかと思った。零下2度を下回る際は本当に気をつけねばならない。人間は簡単に凍え死ぬ。
勝木は真っ暗闇であった。結局収穫の少なさや条件の過酷さを理由に、この区間は今回の旅程から外してしまった。後から後悔するのだろうか…ここも、もう二度と来ることも無いのだろうか。
越後寒川の駅の通過は見損ねたが、寒川の集落、そして12月に訪れた脇川の集落はしっかりと見送ることが出来た。脇川大橋のアーチが白色の街灯に照らされて浮かびあがり、その手前には死んだように眠る脇川集落が横たわる。吹雪いているようだ。そして僅かに明るさがあるからだろうか、眼下に微かに白波が見えていた。
蓬莱山の脇を抜け、今川駅に飛び込む。あっという間に後方に流れて行った。民宿発祥の地・今川、まずもう来ないだろう。いや、笹川流れの海を見たいと思う事があれば再訪もあるのだろうか。いずれにせよ鉄道撮影としての訪問はもう無い。
板貝の集落が飛び込んできた。「ご神体」もはっきりと見える。ひとつトンネルを抜けて深浦の景が現れる。ナトリウムランプに照らされ橙に輝いていた。3日前にいた小俯瞰の場所でこの列車を見送ったら、どのように見えるのだろうか。再びトンネルを抜け、笹川集落。小さな小さな村落は、生気が全く感じられぬ程に静まり返っていた。ほどなく桑川駅を通過、思ったよりも駅舎は大きい。越後早川は対照的で小駅。思えばあっという間に新潟県に飛び込んできていたのだった。
間島駅を通過。かなり暗かったのは12月の訪問で感じた通りだが、野潟集落など確認することが出来た。海岸線に佇む廃小屋を思う。
そしてトンネルや橋を越え、列車は115系の眠る村上に到着した。
ここに、羽越線メイン区間の旅が終わってしまった。交流区間から、直流区間へ。一度寝台に横たわってから、コンタクトを外して歯を磨き、眠りの支度を整えると、列車は新発田に到着。さらば日本海沿岸。これより羽越、信越、上越と、列車は内陸を切り開いて、関東平野へ突き進む。
さすがに睡魔が厳しくなってきた。日本酒も飲まず、見るべきところは見た感がある。このあたりで、2022レ最後の夜、眠りに就こう。
朝。水上の運転停車を見届けようかと、4:10に目覚ましをセットしておいた。どうもスマホの設定がまだ分かりきっておらず、予想外にけたたましく鳴ってしまったのはさておき、鳴らしたは良いがどうも眠気に勝てず、そのまま横たわっていると再び夢の世界に逆戻りしてしまった。5時過ぎに再び目が覚め、高崎停車は身体で感じたように思う。その後も高崎線内は寝たり起きたりの繰り返し。大宮着前の放送ではっきりと目が覚めた。
だんだんと意識がはっきりとしてくる。はっきりとすればするほど、この12時間が遂に終わろうとしている事を、身に染みて感じ始める。予想よりもはるかに早く、終章が終わろうとしている。
一片ずつの記憶が、今一度脳裏に浮かぶ。旅は非日常である。現代を真っ直ぐ生きていては決して得られない、時間軸を逆行する感覚が、旅では味わうことが出来る。これは「その向き」で地に植え付けられた私にとっての、かけがえのない夢であった。
そして上野駅13番線は、その夢がいっぱいに詰まった場所であった。かつて北陸号が走り16番線からは能登号も走っていたが、純粋に昭和を感じられる夜行列車としての最後の砦となったのは、あけぼの号であった。全てが無くなってゆく。どうしても、時代に夢を取り上げられてしまったように思えてきてしまう。玩具を取り上げられた子供のように泣き喚く事も出来ぬ歳になり、せめて惜別の12時間を24系客車の上段で過ごす事しか出来ない。積年の感情が堰を切り、仰向けになっている私の左目から、そして右目から、涙がこめかみへと流れてゆく。夢を失う。夢への入口を失う。非日常の終章ではことごとく「未だ帰りたくない」と後ろ髪を引かれる想いが強くなるものであるが、今回はその比ではない。ジョイント音を一つ一つ重ねるごとに、大切な存在との離別が近付いてくる。列車は川口の鉄橋を渡り、遂に東京都内へ入った。誰も止める事の出来ない、時の流れ、列車の動き。この軸の先に、私の前に心預けられる何かが現れるだろうか。悲観する訳でもなく、ただ自分が負うた一つの宿命の重さに、屈してしまいそうになる。心を強く持たねば、と思う矢先、EF64 1031が鳴き声を上げ、再び涙を誘われた。
最後の車内放送。シレソシラファレ、ファラミラレ、レファラレ。このオルゴオルが、私の夢の象徴のような存在であり、大好きだった。
2022レ、0658上野、定時着。
到着の瞬間、呆然とするしかなかった。終わった。終わってしまったのだ。車外に出るのも躊躇われるほどに、心が虚ろに、死んでしまったように、水溜まりのように平たく冷たく下へ下へと広がっていく。義務感のみで足を動かし青の龍の胴外に出て、今までに撮っていないアングルで推進回送を見送った。
さらば、あけぼの号。ありがとう。
13番線に日常の静寂が訪れる。
しばらく悲嘆に明け暮れていたが、その定時に着いた列車の力強く潔い様は、発車時と同様であり、その使命を全うすることに徹していたように感じた。後ろ髪を引かれる感覚よりも、むしろEF64に心を牽引してもらったような思いがする。前に進めなくなりそうな己を、まるでこの2022レは前へ前へと引っ張ろうとしてくれているようにすら思えてきたのだ。残り3夜で命を追える列車の遺志。彼は決然と生きた。私も自分を律しすぎずに、少しは見習おうではないか。暴風なら遅れたって良い、豪雪なら運休したって良い。それでもひたむきに決然と、使命を果たす。一部のファンに夢を与える。そう、自分が愛した存在のように自分が生きることで、もう一度愛するものと出会えるかもしれない。
気丈に生きた彼を、清々しく送ってやれる気がしてくる。朝日の落ちる上野駅3・4番線ホームに上がる。悲しみのみではない複雑な涙を、涙袋に留めるので精一杯であった。
最終日、土樽で君の最後の生き様を、しかと見送ってやろう。
8時10分頃、吉祥寺駅に到着。
五日市街道の向こうに掛かる太陽が、とても白く、高い。
春の訪れが、近付いている。
また今年も、新たな春が来る。
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青森駅始発のブルートレインは、予定通り18時前頃、3番線に入線してきた。午後から青森市街に舞う吹雪は弱まり、小雪が微風に漂う中、紺碧の空の下を橙の子馬に牽かれ、青の龍がやって来る。向かいの2番ホームから、DE10に牽引され入線する姿を写真に収めた。あけぼの号には幾度もお世話になっているが、青森~大館間の乗車経験は無く、2022レの入線場面に立ち会うのも初めてである。最初で最後となるこの瞬間を冷静に過ごすのは至難であり、車中の為にペットボトルのお茶を1本買うのにも思考が必要なほどだった。
2番ホーム、3番ホームとも大変な賑わいようで、一部には立入禁止のロープまで張られていた。鉄道警備隊も十人程度出動しており、「何かあったら絶対許さない」態勢が出来上がっていた。一部報道も来ていたが、客にはあまり興味がないようである。牽引機はEF81 138号機。どちらかというと、137号機に良くお世話になっている印象があり、少し新鮮に感じる。一通り収めたいアングルを制覇していくと既に出発5分前となっていた。今日の乗車は2号車・B寝台開放、男性客としてEF81に最も近い位置。8号車付近から前方へ戻り、とうとう足を踏み入れる。最後の2022レ、12時間の惜別乗車の始まりである。
列車は唐突に出発した。この編成や運転士から、名残惜しさなどは一切感じられない。ただ決然と、定時を刻むというその使命を、残り4日間全うするのみである。その姿勢に、乗るこちらとしても気が引き締まる思いがする。
新青森を発車し、長い車内放送。今日の乗車は上段であるので、スピーカー近くで録音を兼ねて録画。秋田でアナウンスが交代するのだが、後々思えば秋田以南の放送のほうが声色や口調に味があって良かった。勿論つべこべ言っている場合ではない、この区間最初で最後の乗車である。
通路の席に座り、海側の窓を見れば、ちょうど鶴ヶ坂の駅が後方へ流れてゆく。7時間前まで居た駅である。今日の2021レを無事に撮影ができたことに、本当に感謝しなければならない。そしてこの撮影を共にした地元九州・関西在住の大学生くんは、今日は東能代あたりでこの2022レをバルブ撮影すると言っていたが、その後どう立ち回ったのだろうか。
彼は九州育ちで、小学校の窓からブルートレインが通るさまを毎日見て育ったという。そしてその記憶があるからこうして今ブルートレインを追い掛けている、とのことである。このような幼少期の反復は必ず記憶に刷り込まれてゆくものであり、何時しかそれをもう一度見たいと思うものである。懐旧的精神は人間の性なのだろうか。私も高井戸在住時代、小学校の校庭の向こうを、井の頭線3000系一本帯が行き交う様を毎日見ていたことを思い出す。3000系一本帯は私が中学1年のときに全廃。2本帯は忘れもしない、大学3年の秋に引退した。合唱団の通しリハーサルが午後からあるというのに、ラストラン期間最後のチャンスということで午前中に自転車を飛ばし、勝手知ったる踏切を自在に巡り惜別の撮影をしたのだった。
そしてさらに遡ってみれば、私に刷り込まれているのは、中央線・総武線、東西線、京浜東北線を行き交う、103系の記憶であり、幼少期に「あずさ」「かいじ」「あさま」として走っていた、183系の記憶である。物心ならぬテツ心が付いた頃には既に彼らの姿は無く、103系は鶴見線、南武線、八高線、常磐線、武蔵野線、京葉線に残るのみとなっていた。それでも今思えば、十分に未練を晴らすチャンスがあったということである。中学入学後コンデジを使ってこれらを追い回したのは、元はと言えばこの「刷り込み」があったのだろうと思う。
浪岡駅を通過。昨日の2022レを見送った場所である。昨日は中線に貨物列車が止まっていて、やむを得ずアウトカーブ、通過側のホームから動画撮影する予想外の展開であったが、今日は貨物がいないではないか!もっとも通過側のホームにいたからこそ2022レの蹴り上げる粉雪を全身そしてカメラのレンズにまで浴びまくるという体験を出来た訳で、それはそれで貴重なものとなったのだが。
「いつしか、青森から上野、全ての駅を言えるようになっていた。それにまつわるすべての体験を反芻する。旅とともに、日本海側の経験とともに、大人になったと言える我が人生、今日に至るまでの総括とも言える12時間。浪岡を通過し、青の龍は闇夜を翔ける。」
これはちょうど川部駅を通過したあたりで書いたツイートである。幾つかの難所は意図的に記憶したが、あけぼのが通る駅はほぼすんなり覚え、記憶に綺麗に入っている。思えば日本海側を全く通らない旅行というのは数えるほどしかしていない(201209関西行、201302京都、201309九州)。旅行を餌に奮い立たせて生きた時間、旅行に育ててもらった心情、旅行とともに引き出されてくるその時期の日常の記憶、感情の記憶。我が人生を語るにあたり、旅の存在を抜きにすることは決してかなわない。そしてその旅を代表する夜行列車が、あけぼのであった。
川部駅を通過。思ったよりも青森からの距離は近い。あけぼのの通過、飛翔するノスリを撮影したのは、2010.8、青森・道南旅行の最中であった。あれももう3年半も前になる。難読駅代表・撫牛子駅を通過し、2022レは弘前に到着。
これも10.8、汗だくになりながらレンタサイクルを返却し、特急かもしかに飛び乗った記憶が鮮明に蘇る。ちょうどあの時駆け下った階段が見える。あのあたりに立って、かもしかの入線を待った。検札が来ず、特急券を買いそびれた。汗が噴き出してきて座席背面にもたれかかると不快感をおぼえたことすら実感を伴って思い出される。今思うとあの夏は、もっとも私に寄り添ってくれた夏だったのかもしれない。
弘前を出た列車は石川を通過して、大鰐温泉へ。このあたりで車内販売が来た。キーホルダーと、あけぼの弁当を購入。駅弁を青森で調達していたのだが、空腹がちょうどピークに達していたこともあり、2つ食べてしまおうかという究極の贅沢に打って出た。徐々に財布が潤ってゆく日々が続いているため、多少の散財を怖がらなくなっているのがまた怖いのだが、まぁ良いじゃないか、ケチケチしていたって何も始まらない。この区間はとりわけ思い入れも無く車窓も単調であるため、ここで早速あけぼの弁当を頂く。中身はやまびこ弁当である。とても美味い。焼鮭と、鮭フレークが印象的。
大鰐温泉といえば、弘南鉄道がラッセルをあけぼの下りとクロスさせるというイベントで話題となった。かねがねこの温泉は一度来てみたいと思っており、何度か旅程への組み込みを図ったことはあるのだが、結局一度も実現していない。あけぼのが臨時化されてしまい、ますますチャンスが無くなっていくばかりである。
長峰を通過し、碇ヶ関。何秒扉開いていたのだろう、停止→ブレーキ緩解→出発の3度の揺れが、どれがどれであるか分からないほど連続していた。碇ヶ関駅について調べてみると2012年度の乗車人員は113人/日と、他の有人駅よりも圧倒的に少ない。鉄道運用上は重要な駅なのだろうが、利用者は居ない。夜行列車ならではの停車駅の一つだろう。
陣馬―白沢は、車窓を見る気も起きなかった。昨日の撮影の悔しさ。無情。嗚呼。
大館は、発車メロディー「ハチ公物語」が有名である。私も大好きな曲の一つである。昨日観光し、昼食もろくに食べられないほどのあまりの寂れように驚き呆れはしたが、この駅はなぜか好きである。到着、停車、発車メロディー、発車の様子を動画に撮る。2022レから聴く最後のハチ公物語に、悲しさを煽られる。
大館を出発し、弁当2つ目を頂く。「むつ湾産帆立釜めし」、開けるとホタテがゴロゴロと入っている。非常に贅沢で、美味。多少過食の感はあったが、美味いから何も苦しくない。つまみのポテチは家に持って帰るとしようか。
前山駅通過。野●●初体験の地であるとかはともかく、この駅にバリ順で駆け込んできたあけぼのを撮影した1年前が懐かしい。続く二ツ井駅では、2013/3、下りを下車した瞬間や跨線橋からの583撮影、81貨物の「見なければよかった」通過などが思い出される。2013/12の下り撮影も記憶に新しい。
東能代駅到着。この駅は五能線の入り口として幾度となくお世話になっている。2013/8の、危うく降り遅れ事件は一生忘れられない。二度寝して見た「ラッパが鳴る夢」で目が覚めると列車は東能代停車中で、慌てて上段から駆け下りて扉に向うも始めは逆方向に進み(カニのドアは開かない)、慌てて戻るも8号車通路端の消火器にリュックの紐が引っ掛かり、靴は脱げたまま、ドタバタと見苦しく悶えながらドアに身を一度挟み、転がるように下車したのであった。
列車は北金岡を通過し、森岳へ。じゅんさいの聖地である。秋田の晩餐で食したじゅんさいのあまりの美味さに驚嘆し、今回の自宅用の土産とした。しかし森岳の撮影地を訪れたことは結局無い。13.2の計画に浮上はしたが、二ツ井富根に置き換えられたのだった。仮に臨時化したあけぼのを撮るとしても、ここは選択しないであろう。恐らく縁が無いのかもしれない。やはり今日乗車している区間、とくに奥羽線内は、今回で本当の別れと思って乗るのが正しいだろう。
あけぼのを中心とした撮影や旅行など、やりたいことは他にも沢山あった。残念だがその全てを制覇することは到底かなわなかった。もっと身軽に立ち回れば良かったという後悔の念と、この程度でちょうど良かったのではないかという思いが、若干後者有利で鬩ぎ合っている。何をどう足掻いても、時は流れてしまった。
記憶の時計を逆回ししていくと、3.11にまず辿り着く。偶然であるが今日は3.11から丸3年、青森アスパムで黙祷を捧げたばかりである。全く直接被災した訳でもない私が言うのは荒唐無稽であるが、私も当時の立場上、3.11に相当苦しめられた。大きく人生を捻じ曲げられたまま、今日に至っていると、口にこそ出せないがそう思う事がある。
再び記憶の時計を逆回ししてゆくと、時間軸の無情さに悲しみが込み上げる。私は何故、古きものに、昭和に、これほど取り憑かれてしまったのだろうか。そしてそれらが失われていくこの時間軸上で、一体この先どこへ向かえばよいのだろうか。ふと思えば話題が、現代が「つながりすぎている」時代であるという事と、どこか繋がってきている気がする。八甲田丸を見ながら、小雪(後々、吹雪となった。相変わらず、雪男っぷりは健在である)の中を流れてくる「津軽海峡冬景色」を聴き、どうしようもなく「ゆかしい」気持ちになり、そこから現代の「つながりすぎている」事へと思考が発展していったのだった。繋がりたくても離れなければならない時代、現代とはまるで対象的な時代を背景とした人間の関係は、私にとってどうしようもない憧憬の対象であるようだ。
育む時間が短くなれば、育まれる想いも少ない。人と人との関係は、つながりすぎることでドライになっている。そんな時代を生きながら私は、心の奥底で有機的な関係、(泥臭いとは言わないが)古臭い関係を求めている事は間違いない。そして、興味関心の向いていく方向だとか、対人関係における姿勢、さらには人生の姿勢だとか、これら全ては同じ根を持つ物であるように思う。これを「生まれた瞬間に地に突き刺された角度」と何時からか表現するようになった。時代に逆行する向きで地に植え付けられた私は、根本的な逆流に抗いながら、この先も生きていくのだろう。届かぬものを追い掛けて、結局気付いてみれば自分も時間軸上を正方向に移動している、そんな事になるのだろうか。
それにしても「津軽海峡冬景色」、どうしようもなくプラトニックなエロを感じる(声は勿論)。自分の中にある悲恋への憧れは一体何なのだろうか、とふと思う。皆持つものなのだろうか。私も手の届かぬあの人を一生愛することになってしまった訳だが、果たして私の事象のうちどちらがニワトリでどちらがタマゴなのか。
思うに昭和文化は、日本人の気質・気性をとてもよく体現しているのではないだろうか。精神構造的に、昭和文化にピッタリ合うのが日本人なのではないか。現代の世代はバイアスがかってそれらを無意識に排除し、平成文化が自分たちに合っているものであると錯覚し、何の自覚も持たずに無感動に無感情に生きているのではないかと思う訳だ。
さて、だいぶあけぼのから話が逸れていってしまった。今まで、7-下に優しそうな中高年男性が居て、8-上に私、残る2席は空席のままであったが、東能代で7-上にやたら野性的な風貌の老紳士が乗ってきた。東能代が地元で、あけぼのには「いい思い出はあまりないが、無くなってしまうのはやっぱり寂しい」ので、仕事を休んで乗車を決めたという。記念に写真を撮って差し上げた。ちらっと見てみると、ルイヴィトンのバッグを持っている。まさかそっち系じゃないだろうかと疑いもしたが、秋田を過ぎるとカーテンを引き眠りに就いた。
ところで9-下と10-下が、青森を出た直後から酒談議で盛り上がっていて、少々煩い。どうせ酒を語るなら、君らの年ならもう少し幅広く深く、聞くこちらが面白いと思うようなレベルのことを話したまえ。マッカランやグレンフェディックなど話題にするまでもないだろう、などと若干軽蔑しながら聞いていたが、どうしてこうまで気に障るのかと思ったら、語りたがりの男性特有の抑揚によるものだと途中で気付いた。女に好かれないだろうな。俺は女にも物を語ることは少なからずあるが、ああいう喋り方は恐らくしていないだろう。いやしかし自分の喋りというのは案外分かっていないもので、もし何かサシ飲みの際の会話を録音して自宅に戻って再生してみたら果たしてどれほど恥ずかしいものだろうかと思う。
夜行列車とはそういう会話を生む場でもあり、そんなものを否定するつもりは毛頭ない。ただ私は2022レの日常が味わえればそれで良い。そういう観点からすると、今日の車内は浮足立った印象もなく、比較的落ち着いている。いい意味でこれは日常的な光景である。時折この列車の価値など分かりもしないであろう厨房がうろうろしていたりはするが、これもまあこれで日常。いい日に良い車両に乗車出来たことを、大変幸せに思う。
八郎潟を出発すると、雨が鋼板を鳴らす。12.9の小田原駅や、13.8の下りあけぼの車内を彷彿とさせる。追分では男鹿線撮影行を思い出す。あの人が、あの写真にイイネをくれたっけ。やはり僕は、愚かにも彼女を愛し続けてしまう。
ふと気付けば枠よりマットが5cmほど小さいことに気づく。縮んだのだろうか?列車が南下するにつれて車窓から雪は減ってゆく。この旅の高速逆戻しである。人生の総集編が如く、いろいろな記憶の断片が脳内をあちこち飛び回って行き、その全てを文にするのは勿論、メモを取るのすら困難であるが、2014・冬は、人生第2楽章のCodaなのかもしれない。
ところで、私と一般の鉄ヲタとの区別は、どう説明すればよいのだろう。ただの鉄ヲタではないことを端的に説明するにはどうすればいいのだろう。「思想」と「感性」?さらには、コンテクストの概念?どう動いてどう撮るかという表面的な問題はさておき、「何を撮るのか」という思想の部分に関して、正確な表現ができるようにしておきたいものである。
思索するうちに列車は土崎を過ぎ、秋田駅に到着。さらば、奥羽本線。数分の停車の後、EF81の悲哀に満ちた鳴き声が構内に響き渡る。EF64もEF81も、とても愛らしく、とても悲しい声をしている。
秋田駅を出ると、再び雨が降ってきた。車掌は秋田車掌区のオオハラ氏とサダ氏に交代。声の雰囲気がとても良い。客車内蔵のマイクで程よく割れて、時代を感じられる声である。
程無くして、新屋駅を通過。一昨日のタクシーの車中の会話を思い出す。かつてのあけぼのはこの区間は通っていなかった。羽越線経由になってから20年近くが経ち、日本海が廃止されて羽越線唯一の夜行列車となった、寝台特急あけぼの号。定期列車として残り4往復である。一駅一駅、実感が強まっていくばかりである。
桂根駅との駅間、撮影地である陸橋を後方に見送り、トンネル出の直後の俯瞰場所を心の目で見る。もう本当に二度とやって来ない場所であろう。たとえば40年後、丸1年そして200万円ほど掛けて、青森から下関まで裏日本側を歩き通すとか、そんな事をせぬ限りは。しかしそれでは砂の器より過酷である。その頃、羽越本線の鉄路は果たして残っているのか。裏日本側の幾つの集落が限界を超え、幾つの都市が滅びているのだろうか。事ある度にこの事を考えていて、徐々にその将来像が描けつつあるのだが、羽越本線は貨物専用線のような扱いになり、旅客列車は2050年を前に滅ぶのではないだろうかと思う。そして多くの集落はインフラ整備の終了に伴い潰れ、秋田・酒田・鶴岡・村上周辺に小さく残るのみではないだろうか。
車窓を眺めていると、踏切が後方に流れゆくほか、中継信号の音なのだろうか、C♯-G♯の音も共に流れていく。ただの完全5度の筈なのだが、この組み合わせはどうもマイナーコードに聞こえる。D♭-A♭と聴いても良い筈なのだが、これは音色の問題というよりは音の個性なのだろう。
「青龍のガラス爪弾く春の雨」
道川~下浜の駅間は想像より遥かに長い。この区間、美しいストレート構図で下りが撮影出来るのだが、一度も訪れる事はなかった。せめて貨物列車だけでも仕留めておきたかった。81の貨物は3.15改正後、果たしてどうなってしまうのだろうか。秋田まで乗り入れる2091・2093レは、510に置き換えられてしまうのではないだろうか。もう諦めは付いているが、仮に臨時のあけぼのを撮影に来た際に副産物が全く無いというのは、少々苦しいものがある。
羽後亀田。やはりこの駅は砂の器の印象が強い。ドラマ版の撮影は本物の羽後亀田駅を用い、さらにこの周辺でロケも行ったと聞く。思い返せば今春は京丹後を訪問する予定だった。改正が近付くに連れ、あけぼのへの未練が亡霊のように膨らんでゆき、急遽計画を練り東北へ来たのだった。この判断は間違いではなかったどころか、大正解だろう。
亀田手前あたりで海岸線から離れ、集落も離れる。先程までは雨音がしていたが急に静かになり、車窓の街灯を見遣ればナトリウムランプに照らされた橙の粉雪がふわふわと舞っている。よくよく見るとかなり積雪もあるようだ。小砂川からの帰りに通過予定の折渡駅で長停した際、本当に電波の入りが悪かった事を思い出す。同乗していた学生もそのような事を会話に出していたし、先日鶴ヶ坂で長い時間を共にした同業の大学生くんも同じような事を口にしていた。折渡は峠である。岩谷付近の集落があったから、海岸線を離れ峠を越える経路が選択されたのだろう。
羽後岩谷-羽後本荘といえば、羽越本線列車衝突事故が浮かぶ。連査閉塞の穴が指摘された事故であるが、どう考えても人為的ミスなのだった。この区間はこの事故を受けて複線になっている。帰京してから知ったことだが、この事故車(D51ならびにDF50)は両方とも修理を受けて復帰したという。
羽後本荘手前、久しぶりに大きめのマンションが車窓に入って来た。ふと、先月の奈良行の際の、サンライズの車窓で見た藤沢近辺の景色を思い出す。あの出張中は一人の女性の事を考えていたが、藤沢通過時にはこの近辺に住むまた別の女性のことをちらっと頭に浮かべたのだった。
本荘を発車。今日の運転は若干荒めである。雨天がそうさせるのだろうか、発進の際の揺れが非常に大きい。これも機関車牽引の列車ならではの振動であり、今後そう味わうことも出来なくなるものであるから、五感にしかと焼き付けておかねばならない。車内灯が一段階落ちた。
隧道進入や橋梁通過の際、EF81が必ず鳴く。この区間、決然たる加速は今日の乗車で最も強力なものであったが、それと裏腹に鳴き声は一つ一つの景色との惜別の挨拶のように聞こえる。街は変わり、列車も変わりながら今日に至った。互いに持つ記憶を交換し、昔話に花を咲かせているのだろうか。4日後からはこの時間帯にはぽっかりと穴が開く。眠る街を横目に行く旅客列車は、もう消えてしまう。
西目、出戸信号場。再び列車が海岸線に近付く。西目俯瞰は徒歩1時間かかると聞くが、その絶景は特に夏場の午前は素晴らしいものなのだろう。特に6~10両の列車に対してちょうど良い構図なのだろうが、3.15の後ここを通る特急列車は653系である。無念としか言いようがない。
気が付けば雪は消え、降りしきる雨に景色が次第に歪んでゆく。これは雨か、それとも日本海側の全てが流す涙だろうか。
仁賀保に到着し、直ぐに出発。さらに車内灯が落ちる。雨に濡れた24系のガラスに、車窓のナトリウムランプが微かに滲む。早々と寝静まった車内をよくよく見ていると、カーテンの色が奇数番は緑系、偶数番は紫系であることに気付く。今まで見えていなかった事を考えると、まだまだ見えていないものがたくさん、この車中だけでも幾つもあるのだろうと思う。
早いもので、気が付けば象潟に到着。完全に雨降りで車窓は雨に大きく歪み、少し風も強くなってきた。小砂川で嵐に追い付かれたのはもう一昨日のことなのか。もう間もなく当該区間を通ろうとしているが、今日もまた天候が荒れている。
通路で景色を見ているのは2号車では私一人になった。車窓には大型トラックが多く目に付く。北上するものもあれば、南へ並走するものもある。道は線路に近付いては離れてゆく。もしかすると今見ているトラックはさっきと同じ車ではないだろうかなどと思ったりもする。向こうからこちらの存在は見えているのだろうか。同じ夜を行く者同士、何か思い合う事も出来ればと、そんな事を考える。
上浜駅で510牽引貨物が退避していた。小砂川に向かう2022レの車窓に目を凝らし、心の目を見開き、2日前に立って見た景色を描く。海原が手前に広がり、車窓後ろ方向、北の方角であるが、街の灯りが微かに見える。ちょうどこのあたりであろう。漆黒の茫洋を照らす物は無く、水平線は闇に隠れており、ただ車窓の上3分の2は黒の画用紙であるが、こうして心と記憶を伴いながら見る景色というものは格別であり、そこに惜別の念が絡んでくれば更に思いも一入である。間もなく2022レは灯りの一つもない小砂川駅を力強く通過していった。この辺りは住宅も点在している人里のはずなのだが、異様に暗い。眠りが早いのだろうか。
列車は秋田県に別れを告げ、山形に入った。酒田を目指し力走するが、その前に遊佐に到着。僅か8秒程度で扉が閉まったようだ。乗客は2012年で229人/日と以北の駅よりも少ない。しかしあつみ温泉はこの半分程度であるようで、やはりこの一帯の集落は近い将来淘汰される運命にあることが推察出来る。
酒田を過ぎると、不思議なことに再び雪景色が姿を現した。これが庄内と沿岸の差であろう。たしかに3日前、酒田で列車を乗り継いだ際にも、駅構内からして銀世界であった。
余目にも雪は降っていた。余目駅といえば、10.6の夕景は後にも先にも見た事のない、恐ろしい程の濃桃色を呈していた。陸羽東線の小駅に植えられた小さな花々を見て、その愛らしさに涙した南東北旅行。陸羽西線が庄内平野に飛び出すあの瞬間の驚きと、そこに待っていた夕空。一人旅というのは心がニュートラルな状態で時を過ごす事になるからだろうか、入力される情報が感性を通じて克明に記録される。思えばあのあたりから、今の私は始まったような気がする。あの晩は鶴岡の居酒屋で酒を飲み、それから2022レに乗車したのだった。当時まだ、19歳である。
余目から鶴岡の間は単調であり、少しの間眠りに就く。すれ違ったのは幕ノ内信号場だろうか、遅れのいなほはR編成であった。鶴岡駅付近は降雪はあるも積雪はなし。徐々に南下してきた事を実感する。
よくよく感じてみると、81の鳴き声が、通常よりも気持ち長めに聞こえる。SL人吉の白石駅発車の汽笛もそうであったが、最後に少し押し込んでくる感じが胸に強く迫ってくる。電気機関車の息は細く心髄に届くには及ばないが、それでも哀しさを煽るものがある。
羽前水沢付近を快走。三瀬の駅も軽快に通過してゆく。しばらくすると新線のトンネルを抜け、列車は小波渡の駅に飛んで入った。1年前、ここの集落の高台から下り列車と夕陽を見送った。あの穏やかな早春の景色は忘れられない。夜闇の中、下りホームの待合室は電気が灯り薄らと明るかったが、街はもう深い眠りの中。思いを馳せるのも数秒、すぐさま列車は次のトンネルに飛び込んで行った。
五十川駅では保線員がこの夜中に作業中であった。あつみ温泉の手前、海際を走る国道がナトリウムランプにぼんやりと照らされ、粉雪とも霙ともつかぬ雪がその手前をちらちら舞っている。再び81の鳴き声が響く。あと4夜、誰も変える事も止める事も出来ない宿命を、ただ燃やし尽くすしかないのだ。
あつみ温泉の駅は誰も見当たらなかった。列車はすぐに発車し、しばらく行くと大岩川の眠る街を抜ける。俯瞰構図の景色を脳内に浮かべ、今自分がどの辺りを走っているかを照らし合わせる。昨年は雨が降っていた。今日もまた雨濡れの景色。日本海側は景色そして風土に影があり、憂いがある。そこに惹かれるのだろうか。太平洋側では感じられない「裏」日本の美しさは、湿り気と切っても切れぬ物である。
小岩川の駅を通過。こうしてどんどん、別れてゆくのだ。哀しさばかりが増してゆく。この先新たな出会いが、新たに心を委ねられる存在が、私の前に現れるのだろうか(亀井絵里が去って、金澤朋子はその穴を埋めてくれるのだろうか)。時間軸は無情である。鉄路は一本道で引き返す事が許されないという潔さに惹かれている部分があるのかもしれない、とふと思う。
とある女性が1号車へと戻っていった。エメラルドグリーンのタートルネックにジーンズを当てた、ショートカットの女性。とても美しかった。20代前半だろうか。声を掛けて、デッキで話でもすればよかった。どうも自分は勇気が無さすぎる。ちょっとの勇気を挫く程に、その女性は綺麗だったのだが。
さてそんな事を考えるうちに、列車は鼠ヶ関を通過。翌朝の仕事に備えて眠りに就くキハ40の横を、EF81+24系客車が猛進してゆく。この光景も後僅かである。キハ40も、国鉄型の相棒をどんどん失ってゆく。
52・58系列の引退などから、我々の世代はキハ40の雄姿をしっかり目に焼き付けていかなければならないと悟り、今日まで必死にその姿を追い求めてきた。姫新色、東北色、北海道色は未だまともな写真が無いが、その他は殆どしっかり撮ってきたように思う。高山の冬模様を撮りたかったのだが、自然災害の多い地区であるため計画を立てる事すら少々怖いものがある。1月初頭など丁度良いのであろうが、来年は修士論文真っ最中である。2日間くらい強引にこじ開けてみようか。はたまた今回の改正で、どれほど新車に置き換えられてしまうのか、動向が気になるところである。
府屋駅ではラッセル作業中であった。水上の景色が早くも5日前になることに愕然とする。凍え死ぬかと思ったあの夜。両足の感覚を失ったあの瞬間は、本当にやってしまったかと思った。零下2度を下回る際は本当に気をつけねばならない。人間は簡単に凍え死ぬ。
勝木は真っ暗闇であった。結局収穫の少なさや条件の過酷さを理由に、この区間は今回の旅程から外してしまった。後から後悔するのだろうか…ここも、もう二度と来ることも無いのだろうか。
越後寒川の駅の通過は見損ねたが、寒川の集落、そして12月に訪れた脇川の集落はしっかりと見送ることが出来た。脇川大橋のアーチが白色の街灯に照らされて浮かびあがり、その手前には死んだように眠る脇川集落が横たわる。吹雪いているようだ。そして僅かに明るさがあるからだろうか、眼下に微かに白波が見えていた。
蓬莱山の脇を抜け、今川駅に飛び込む。あっという間に後方に流れて行った。民宿発祥の地・今川、まずもう来ないだろう。いや、笹川流れの海を見たいと思う事があれば再訪もあるのだろうか。いずれにせよ鉄道撮影としての訪問はもう無い。
板貝の集落が飛び込んできた。「ご神体」もはっきりと見える。ひとつトンネルを抜けて深浦の景が現れる。ナトリウムランプに照らされ橙に輝いていた。3日前にいた小俯瞰の場所でこの列車を見送ったら、どのように見えるのだろうか。再びトンネルを抜け、笹川集落。小さな小さな村落は、生気が全く感じられぬ程に静まり返っていた。ほどなく桑川駅を通過、思ったよりも駅舎は大きい。越後早川は対照的で小駅。思えばあっという間に新潟県に飛び込んできていたのだった。
間島駅を通過。かなり暗かったのは12月の訪問で感じた通りだが、野潟集落など確認することが出来た。海岸線に佇む廃小屋を思う。
そしてトンネルや橋を越え、列車は115系の眠る村上に到着した。
ここに、羽越線メイン区間の旅が終わってしまった。交流区間から、直流区間へ。一度寝台に横たわってから、コンタクトを外して歯を磨き、眠りの支度を整えると、列車は新発田に到着。さらば日本海沿岸。これより羽越、信越、上越と、列車は内陸を切り開いて、関東平野へ突き進む。
さすがに睡魔が厳しくなってきた。日本酒も飲まず、見るべきところは見た感がある。このあたりで、2022レ最後の夜、眠りに就こう。
朝。水上の運転停車を見届けようかと、4:10に目覚ましをセットしておいた。どうもスマホの設定がまだ分かりきっておらず、予想外にけたたましく鳴ってしまったのはさておき、鳴らしたは良いがどうも眠気に勝てず、そのまま横たわっていると再び夢の世界に逆戻りしてしまった。5時過ぎに再び目が覚め、高崎停車は身体で感じたように思う。その後も高崎線内は寝たり起きたりの繰り返し。大宮着前の放送ではっきりと目が覚めた。
だんだんと意識がはっきりとしてくる。はっきりとすればするほど、この12時間が遂に終わろうとしている事を、身に染みて感じ始める。予想よりもはるかに早く、終章が終わろうとしている。
一片ずつの記憶が、今一度脳裏に浮かぶ。旅は非日常である。現代を真っ直ぐ生きていては決して得られない、時間軸を逆行する感覚が、旅では味わうことが出来る。これは「その向き」で地に植え付けられた私にとっての、かけがえのない夢であった。
そして上野駅13番線は、その夢がいっぱいに詰まった場所であった。かつて北陸号が走り16番線からは能登号も走っていたが、純粋に昭和を感じられる夜行列車としての最後の砦となったのは、あけぼの号であった。全てが無くなってゆく。どうしても、時代に夢を取り上げられてしまったように思えてきてしまう。玩具を取り上げられた子供のように泣き喚く事も出来ぬ歳になり、せめて惜別の12時間を24系客車の上段で過ごす事しか出来ない。積年の感情が堰を切り、仰向けになっている私の左目から、そして右目から、涙がこめかみへと流れてゆく。夢を失う。夢への入口を失う。非日常の終章ではことごとく「未だ帰りたくない」と後ろ髪を引かれる想いが強くなるものであるが、今回はその比ではない。ジョイント音を一つ一つ重ねるごとに、大切な存在との離別が近付いてくる。列車は川口の鉄橋を渡り、遂に東京都内へ入った。誰も止める事の出来ない、時の流れ、列車の動き。この軸の先に、私の前に心預けられる何かが現れるだろうか。悲観する訳でもなく、ただ自分が負うた一つの宿命の重さに、屈してしまいそうになる。心を強く持たねば、と思う矢先、EF64 1031が鳴き声を上げ、再び涙を誘われた。
最後の車内放送。シレソシラファレ、ファラミラレ、レファラレ。このオルゴオルが、私の夢の象徴のような存在であり、大好きだった。
2022レ、0658上野、定時着。
到着の瞬間、呆然とするしかなかった。終わった。終わってしまったのだ。車外に出るのも躊躇われるほどに、心が虚ろに、死んでしまったように、水溜まりのように平たく冷たく下へ下へと広がっていく。義務感のみで足を動かし青の龍の胴外に出て、今までに撮っていないアングルで推進回送を見送った。
さらば、あけぼの号。ありがとう。
13番線に日常の静寂が訪れる。
しばらく悲嘆に明け暮れていたが、その定時に着いた列車の力強く潔い様は、発車時と同様であり、その使命を全うすることに徹していたように感じた。後ろ髪を引かれる感覚よりも、むしろEF64に心を牽引してもらったような思いがする。前に進めなくなりそうな己を、まるでこの2022レは前へ前へと引っ張ろうとしてくれているようにすら思えてきたのだ。残り3夜で命を追える列車の遺志。彼は決然と生きた。私も自分を律しすぎずに、少しは見習おうではないか。暴風なら遅れたって良い、豪雪なら運休したって良い。それでもひたむきに決然と、使命を果たす。一部のファンに夢を与える。そう、自分が愛した存在のように自分が生きることで、もう一度愛するものと出会えるかもしれない。
気丈に生きた彼を、清々しく送ってやれる気がしてくる。朝日の落ちる上野駅3・4番線ホームに上がる。悲しみのみではない複雑な涙を、涙袋に留めるので精一杯であった。
最終日、土樽で君の最後の生き様を、しかと見送ってやろう。
8時10分頃、吉祥寺駅に到着。
五日市街道の向こうに掛かる太陽が、とても白く、高い。
春の訪れが、近付いている。
また今年も、新たな春が来る。
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